1990年デビューの競走馬。主な勝ち鞍は1990年の菊花賞、1991年・1992年の天皇賞(春)、1993年の宝塚記念など
デビュー戦では2着に1馬身半の差をつけての完勝、陣営はダービーも視野に入るとするほどの完勝ぶりであったが、骨膜炎が治癒せず続くゆきやなぎ賞とあやめ賞では惨敗。ダービーは諦めて菊花賞を見据えて休養に出されることとなった。
9月から始動し、続々と条件戦に勝利していたが、前哨戦に選んだ嵐山ステークスでは騎手のミスにより2着で敗北する。
これにより、菊花賞に参加する賞金が足りず一時は出走が危ぶまれたが、賞金上位の馬が菊花賞を回避したため無事出走することができた。
重賞に初出走であったが、長距離向きの血統や追切で1番人気のメジロライアンに先着していたことから4番人気となり、勝利を収める。
「有馬記念はライアンにとらせたい」という馬主の意向や食欲不振で調教が上手くいかなかったため、有馬記念は回避することとなった。
ちなみに有馬記念でライアンはオグリキャップの2着であった。
春シーズンは阪神大賞典から始動してここで勝利、天皇賞(春)へと直行した。
目標としていた天皇賞(春)では一番人気に推され、2着に2馬身半の差をつけての完勝。1984年に死去したメジログループ前総帥・北野豊吉氏の宿願であった父子3代天皇賞制覇を達成した。
続く宝塚記念でも1番人気に推されるが、メジロライアンの2着に敗れる。
秋のシーズンでは京都大賞典から始動し、ここでも2着に差をつけての勝利。
タマモクロス以来の快挙となる天皇賞の春秋連覇を目指し、ここで1着であったが、スタート時に斜行したため18着へと降着されてしまった。
翌年は前年同様に阪神大賞典から始動して天皇賞(春)でトウカイテイオーと激突し、史上初の天皇賞連覇を達成した。
宝塚記念に向けて調整されたが、骨折し、翌年の春まで休養を余儀なくされる。
翌年の春では、天皇賞(春)の三連覇を目指して調整されていたが、当日は
ミホノブルボンの無敗クラシック三冠を阻止したライスシャワーに徹底マークされて2着で敗北。次走の宝塚記念で勝利して4年連続G1を勝利した。
秋の京都大賞典ではコースレコードで圧勝し、賞金総額は史上初の10億円に到達した。
天皇賞(秋)のリベンジを目指して調整されていたがそこで繋靱帯炎を発症し、引退して種牡馬入りした。
主な産駒としてはクイーンカップを制したエイダイクインなどがいるが、マックイーンの血統はどっちかと言うと母父としての方が知られており、
ステイゴールドとメジロ
マックイーン産駒の配合・通称ステマ配合でドリームジャーニーやオルフェーヴル、ゴールドシップといった名馬を次々と輩出していった。