精神削ってまでランクマしなくていいから・・・


独眼竜…推して参る!
伊達政宗
コスト2フォロワー
クラスドラゴン
タイプ-
レアリティゴールド
パックバハムート降臨
CV杉田智和
進化前
攻撃力2体力2
ファンファーレ エンハンス 7; +3/+3して、突進必殺 を持つ。
進化後
攻撃力4体力4
効果なし

フレーバーテキスト


解説

シャドウバースに数多く存在するファイター族の1つにして、同じく数多く存在する残念カードの1つ。
まずエンハンス7が絶妙に重い。突進と必殺を持つフォロワーは相手の大型に特攻させて確定除去として使いたい場面がほとんどだが、シャドバにおいて確定除去は4,5コスト払えば可能なため、7コスト必要なこいつを突進&自害させるのはどう考えても割に合わない。
それならばコイツが盤面に残れば良さげに思えるが、その場合は交戦する相手の攻撃力は4以下であり、大抵の場合は体力も5を上回らない。つまりせっかくエンハンスで付与された必殺はほとんど無駄になってしまう。必殺が腐ることに目を瞑ったとしても、7/5/5突進という動きは(ファイターとしても使えることを考慮に入れても)流石に弱すぎるだろう。
よってコイツを強く使うには攻撃力4以下かつ体力6以上の相手のフォロワーに攻撃して有利交換をする必要がある。ちょっと場面が限定的すぎるんとちゃう?
そんな訳でランクマはもちろん、フリマやホモとのネタルムマでさえ見る機会はまず無い。見かけたらスクショでも撮っておこう。

…というのが現在の評価であるが、ROB期では普通に採用例が見られた。エンハンスが初めて登場した弾であり、7コストとしても使える2コストフォロワーというのがそもそもランプドラゴンにおいて画期的だったのだ。ただ次のTOGから色々インフレしたので出番が無くなったが・・・
まるっきり使えなかったカードというわけでもない。

十禍絶傑のアディショナルでリメイク版が登場。旧政宗であるコイツと比べると強い要素マシマシなせいで、今のところ「政宗」と言えば十中八九新政宗を指す状況に。
たまには旧政宗も思い出してあげてください。

なお、一応横並べしないマゼルベインハイランダーにおいては、ファイターとエンハンスを使い分けられる利便性がマゼとの相性バッチグーなため、採用を検討できる。旧政宗が持つ新政宗との差別化ポイントの一つである。パワーカードである新政宗を採用しないとは言っていない

ほんへ



伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから「独眼竜」の異名でよばれる。

出生から家督相続まで

永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城(今の山形県)で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の嫡男として生まれた。ちなみに真田幸村も同年生まれなのでタメだったりする。同年には織田信長が美濃を征服しているので、いわゆる戦国武将としてはかなり遅い時代に生まれたと言える。この生まれの遅さが彼の運命を大きく変えてしまったとも。
政宗少年(当時は梵天丸)は利発で美少年なショタであったが、5歳の頃に当時は死病だった天然痘に感染。かろうじて一命はとりとめたものの、右目を失明したうえにぶちゃいくになってしまった。これをきっかけにマッマは弟の小次郎の方を可愛がるようになり、心が歪んだ梵天丸は引きこもって本ばかり読んでいる内向的な少年時代を送った。
しかしその聡明さは失われず、11歳で元服、政宗を名乗る。その後弟との家督争いにも勝利し18歳の若さで伊達家の当主になる。
ちなみに片倉小十郎が政宗の右目をくり抜いて眼帯を付けるようになったというエピソードは嘘である。(頭蓋骨に目の摘出痕が無いため)夢が無いね。

家督相続から摺上原の戦いまで

若くして伊達家の当主になった政宗はすぐにその非凡な武将としての才能を開花させていく。当時の奥州(東北地方)は、諸大名が婚姻関係を結んで争わないようにしてるゆるい同盟体のような状態だったが、政宗はこれを破棄。長年争っていた南方の上杉景勝と講和すると家の方針を180度転換し、奥州統一を目指すように。瞬く間に勢力を拡大すると1589年の摺上原の戦いで当時奥州最強とも目された蘆名氏を撃破。わずか23歳にして現在の福島県・山形県南部・宮城県南部を征服。奥州の覇権を手中に収め、小領主だった伊達家を150万石オーバーの全国屈指の大大名へ飛躍させた。ちなみに23歳の頃の織田信長はまだ尾張統一すらできていなかったことを考えるといかに異例のスピードで出世を遂げたかがわかるだろう。

小田原合戦と豊臣政権下

俗に「あと10年早く生まれていれば天下を取れていた」と言われる政宗だが、そう言われる理由は政宗が奥州を手中に収めていたその頃、中央では既に豊臣秀吉が近畿・中国・四国・中部の大部分を征服。天下人と呼ばれるようになっていたからである。政宗が摺上原の戦いに勝利したその冬に、秀吉は天下統一への最後の障害となる関東の強豪・北条攻めに着手。小田原城を20万人もの大軍で包囲した。そして政宗のもとにも秀吉から「小田原攻めに参陣しろ」と手紙が届く。要は家来になれという勧告である。23歳で奥州を制覇し野心ムンムンだった政宗は、これを素直に受け入れることが出来ずしばらく保留に。だが時勢は既に豊臣家が天下にリーサル取ってるような状況。逆らっても滅亡あるのみと冷静になった政宗は秀吉に従うことを決意した。…が、その時には翌年の5月。手紙が届いて約4ヵ月、壮大な大遅刻をしていた。当然秀吉は完全に激おこしており、小田原に到着した政宗に会おうともしなかった。そこで政宗の有名なエピソードだが、白装束(切腹する時に着る服)で秀吉へ凸を敢行。これにはさすがの秀吉も苦笑いで政宗を許し、元来才気のある若者好きな秀吉は彼を気に入り優遇するようなった。
政宗はもともと派手好きだったのか、派手好きな秀吉のためのパフォーマンスかは不明だがこの頃からファッションがド派手になり、南蛮渡来の豪華な衣装を身にまとい、率いる軍も高価な鉄砲をズラリと揃えた非常に見栄えのするものになっていた。朝鮮出兵前の京都での馬揃えが民衆でも話題になり、派手な者・オシャレな者を「伊達者」と呼ばれるようになった。
所領は半分ほどに削られ、天下取りの夢は潰えてしまったが伊達家は豊臣傘下の有力な大名家として存続することになった。(駒姫事件とかあったけど込み入った話なので割愛)

推して参る!

そんな秀吉が1598年に死去。その頃には若さが抜け、大名としての老獪さを身につけていた政宗は即座に徳川家康に接近。奥州の押さえが欲しかった家康的にも渡りに船だったので二人はすぐにズッ友になった。1600年に関ヶ原の戦いが起こると政宗も当然のように東軍に参加。上杉討伐戦に参加すると奥州覇者の実力を発揮し連戦連勝してみせた。
しかし戦後の処分でなぜか上杉家は許され、しかも政宗が長年本拠地にしていた米沢を領地として与えられることに。これにはさすがの政宗もキレ・・・なかった。彼は小田原で大人になっていたのだ。代わりに貰った領土を「仙台」と名付けると、ポジティブシンキングで仙台の街づくりに没頭。後に東北一の都市となる礎を築いた。
その後も色々あったが仙台藩63万石の領土を確立させると、3代将軍家光の頃まで生き「御意見番」「副将軍」と呼ばれる生きたレジェンドとして余生を過ごした。
レッツパーリーなイメージの強い政宗公だが、その実は酸いも甘いも嚙み分け、確かな成果を後の世に残した偉人であった。

このページへのコメント

こいつロイヤルじゃねえのかよ
とツッコミたくなったカード

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Posted by 名無し(ID:LQuSk2kFow) 2020年07月24日(金) 22:48:39 返信

駒姫事件は最上だから伊達とはそこまで関係ないし…

0
Posted by 名無し(ID:L/4H50LzSg) 2020年06月05日(金) 22:54:12 返信

実際政宗が10年早く生まれてても蘆名盛氏とか佐竹義重等と渡り合えるかは微妙な気がする
もっと遠く見たら安東愛季とか南部晴政とか北方の雄も居るし

0
Posted by 名無し(ID:cPAvw5FgfA) 2020年03月04日(水) 10:41:07 返信

はえーまた一つ歴史に詳しくなり申した(小並)

0
Posted by 名無し(ID:3VxBR1J/1w) 2020年01月31日(金) 06:07:44 返信

刀6本使えそう

0
Posted by 名無し(ID:ZW1o2vBrYA) 2019年12月12日(木) 19:05:37 返信

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